今回はカタカナの多い、エセ「意識高い系」な感じのコラムである。
サステナビリティSustainabilityという用語が浸透して久しい。
もともとは、水産資源や化石燃料などの自然資源が有限であることを強調し、その利用や開発に際して「後先のことを考えて」対策を講じることを意図した概念である。時代背景としては、高度経済成長に伴ったローカルな「公害」から、都道府県や国といった境い目や加害者/被害者といった境目を含むあらゆる意味のボーダーがなくなったグローバルな「環境問題」というシフトがあった。これに並行して、環境学界隈の人々にはあまりにも有名な『成長の限界』という1970年代の書籍により、有限資源と人間活動との関係性に警鐘が鳴らされたことも大きいだろう。
サステナビリティは2000年代ぐらいから盛んに使われはじめ、今や環境問題以外の世界でもおしなべて使われるようになった。それぐらい、今の時代にマッチした概念になってきているのだろう。
今回はこのサステナビリティをデータ経営戦略に適用して論じてみる。
データは、ヒト・モノ・カネの3つの資産に加わった第4の資産と言われる。この「データ」が資産としてよく取り沙汰されるのは、言わずとしれた「AI」業界の台頭にあるだろう。
これまではハードウェアの時代だった。モノである。そして今はソフトウェアの時代である。これは無形ではあるがまだモノの要素が強い。IoTというのは有形と無形のコラボレーションであり、近未来的にはこれが主流になるであろう。でもまだモノである。こういった流れの中でデータは異彩な光を放っている。データがモノと違うのは、質だけでなく量にも依存している点だ。そしてもうひとつ。データはモノであるがカネにもなり、そして究極的にはヒトにもなりうる。
そういう意味で、取得したデータをどのように運用していくのか、というのは企業価値を維持向上する上で大変重要となる。
また、こうしたデータ運用戦略は、企業ガバナンス、企業倫理上からも投資家にとって最大の関心事となると言ってもいいだろう。今や世の中はソフトウェアが時代を席巻しており、従来のハードとソフトが融合するInternet of Things: IoTをはじめとしたConnected industriesへのシフトも確実に起こりつつある。いずれのカナカナ用語も、ヒト・モノ・カネ・データのいずれの資産ともconnectされているからだ。
特にヘルスケア領域では、データの運用に伴ってさらに個人情報と医療倫理という大きくデリケートな壁が立ちはだかる。筆者が専門とする精神科領域はその最先端を突っ走っており、診療においてこの2つを念頭に置かない日はない。
パーソナライズド・ケアとか、テーラーメイド医療というのは、未来の医療として以前から存在する概念ではあるものの、その実現には技術的な側面よりもむしろ、エンドユーザーである人々がどのようにそれを捉えているか、という世論や人々の意識の側面がボトルネックになっている。AIにもブラックボックスがあるように、こうした世論もある意味ブラックボックス化しがちである。
さて、先程「データの運用」という表現を使ったのは、これがちょうどタイトルにあるスチュワードシップStewardshipと関係してくるからだ。
筆者自身は、スチュワードシップと聞いてスチュワーデスさん(=しかも、もはや死語と化してしまっている)ぐらいしか思い浮かばないほど想像力が貧弱で恐縮なのだが、金融業界ではお馴染みの用語らしい。
英国ではリーマンショックを契機として、投資先企業のガバナンスが不十分であったことの反省から、財務報告評議会(Financial Reporting Council: FRC)という公的機関により”The UK Stewardship Code”という機関投資家向けのガイドラインを策定している。
データにも同様にスチュワードシップが求められる。ガイドラインや法的枠組みはもちろん、企業独自のresponsibilityとしてのスチュワードシップ規定も必要になる。これは、以前のCSR的な視点と同様で、データそのものの質や運用方法、ビジョンをメタな視点で管理しルールづくりをすることは、企業全体のガバナンスや企業価値そのものに直結するからだ。そういう意味では、データのスチュワードシップも企業のライフサイクル、特にスタートアップにおいてはスタートアップ界隈全体のエコシステムの繁栄という観点においてもサステナビリティが求められると言える。
サステナビリティは、スチュワードシップにも浸透してきている。