前回は、「精神病」という言葉が含まれる用語の違いや関係性の解説をしてきました。そして、精神病症状が骨折よりも多く、喘息や脳血管疾患と同等に存在在しており、ありふれた症状であることも説明しました。では、精神病症状とは具体的にどんなものなのか?解説していきます。
「幻覚」:まぼろしの五感
では、精神病症状の3要素を解説していきましょう。最初の「幻覚」というのは、経験したことがない方がほとんどでしょうが、用語そのものには馴染みがあるかもしれませんね。
幻覚というのは、文字通り「幻(まぼろし)の感覚」のことであり、感覚というのは、人間が感じることのできる五感全てのことを指しています。
五感とは、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚があり、その全てが「幻」になる可能性があります。ただし、精神病症状としての頻度としては、幻聴>>幻視>幻触>幻臭>幻味です。ちなみに幻触は体感幻覚と呼んでいます。
それぞれの精神疾患において、特徴的な幻覚というのが存在し、例えば、統合失調症では幻聴が多く、レビー小体型認知症と呼ばれる認知症のひとつのタイプには幻視が多いことが知られています。
これもよく間違われている使い方として、「幻覚や幻聴があります」というセリフです。やや揚げ足取りですが、幻聴は幻覚に含まれているので、幻覚が「見えて」いたという意味なら「幻視や幻聴があります」というのが正解になります。…とはいってもあまり使う機会は少ないかと思いますが。
体感幻覚というのは、「肩を誰かに触られている気がする」といった実際は存在しない感覚を指します。体感幻覚は、「幻肢(痛)」と区別されます。四肢切断や脳卒中等で経験される幻肢は、「自分の脚がまだ残っている気がする」「切断して存在しないはずの左腕が痛い」といった実際は存在していた感覚であり、「幻」とは書くものの、いわゆる根も葉もないところから生じている幻覚ではなく、以前あったものがあるように「錯誤」している感覚、錯覚になります。
幻味は「食べ物が砂の味に感じる」とか「飲み物が金属の味がする」といった感じで錯覚のようにも聞こえる表現をする方が多いので、厳密にはあまり幻味としてピックアップされることはありません。重要なポイントとして、これらの発言の行き着くところには、「食べ物に毒が盛られている」「味もしないほど自分の感覚はなくなってしまった」などといった、極端に誤った認識の内容を伝えたくて述べていることが多く、この誤った認識のことをそれぞれ被毒妄想とか、微小妄想といったように、妄想の概念に関連付けて情報が聴取されることとなります。
ここで妄想という用語が出てきたので、精神病症状の2つ目の要素である妄想についてお話しましょう。
「妄想」=信じてやまないのに了解されない
精神病症状に含まれる「幻覚・妄想・言動の解体」のうち、妄想というのは、「了解を得られない誤った考えや信念」のことを指しています。皆さんがよく使う「あまりにもお腹が空いていたので、ご馳走を頬張る自分を妄想していた」というのは、実は正しくは、「空想」です。加えて、妄想と聞くと、何となく面白いことや、やましいことを想像しているような時に使われる印象が強いと思いますが、これらは全て「空想」になります。では、こういった空想と妄想は何が違うのでしょうか?
決定的な違いは、本人がその内容を「信じきっているかどうか」です。空想は、自他ともにそれが「現実のものではない」ということを認識しています。一方、妄想は、本人にとってその内容に疑いの余地はありません。これは、その前段階である「念慮」というステップを踏んでいるからです。
「念慮」には疑いの余地が(まだ)あります。例を挙げましょう。典型的な妄想内容に「誰かが自分のことを狙っている」というものがありますが、患者さんは最初からこのような「結論」に至っているわけではありません。皆、最初はどことなくいつもと違う「不審な雰囲気」から始まっています。これは、「自我障害」(こちらの記事に解説しています)とも関連していますが、症状の進行に伴って、やけに皆がよそよそしく感じたり、うわさ話をしているように感じたり、あるいは自分側もいつもより疲れやすいとか、落ち込みやすいとか、そういう微細な変化を補聴器のように大きく「感じ取る」ことから始まっています。これは実際に起こっているのではなく、症状によって本人の中の感じ取り方が変化しているために生じています。
しかし、本人にとっては、自分の感じ方が症状によって変化しているとは気づき得る手段がありません。自分の感じ方、つまり、自分の五感全てに症状によるフィルターがかかった状態になっていきますので、自分の周囲で起こること、なされること全てが妙に自分に関係しているように感じていきます。例えば、たまたま自分がコンビニで買った新商品のアイスが、帰宅後テレビをつけた途端にコマーシャルで放映されていると、自分の知らないところで、情報共有なり監視なりがされているように感じてしまいます。道を行き交う見知らぬ人も、実際は普通に談笑しているだけなのに「自分の噂話をしている」ように感じていきます。たまにしか起こらない偶然や微細な情報が全部「必然」であり、自分と関係しているかのように感じてしまうわけです。
本人も最初は「何か変だな」ぐらいにしか思っていなかったのが、あまりにも妙に物事がつながっていく(ように自分が感じる)ので、その確証を得るための言動としてどんどん「勘ぐり」がエスカレートしていってしまいます。
これらの「勘ぐり」の行き着く先として、「自分は何者かに命を狙われているんじゃないか」とか、「自分の背後で周りが結託して何か共謀を働いているんじゃないか」「個人情報が漏れているんじゃないか」などといった疑念が湧いてきます。この疑念を「念慮」といい、被害念慮とか、関係念慮とか、それぞれ内容に応じた呼び名があります。念慮の段階では、まだ自分でも疑いの余地は残っているので、「追われている気がする」というような、確証だっていない表現で、首を傾げながら述べる方もいらっしゃいます。本人以外の人間からみると、「修正が可能かどうか」という視点で念慮か妄想かを判断することができます。「気がする」のであれば、そうではない可能性も含まれており、修正はまだ可能と言えるでしょう。
しかし、本人に「気のせいだよ」「自分の感じ方が違ってきているだけだよ」と諭しても、本人にとっては疑念を抱きながらの生活はその後も変わりませんので、見るもの聞くもの全ての体験が、念慮を確信付けて「妄想」として完成させるための情報集めのためにフィルターされていきます。この段階になると、フィルターというのは具体的には「自分との関連付け」の作業を加速させることを意味していきます。なぜなら、これらの体験は極めて「受動的」で「コントロールがきかない」ものだからです。
患者さんは「何者かに〇〇された」「△△が私に□□している」という形式でおっしゃる方が多いのは、実際にこうした体験が、自分の意志とは関係ないところで押し迫ってきた結果ということを反映しています。受動的かつ恐怖に圧倒される体験ですので、心理的にはどんどん追い詰められていき、夜も寝られず、食事を摂れる安心感も抱けずに極限状態に陥っていくわけです。これに伴って、思考内容も極端になり短絡的になっていきます。
例えば、一度も会ったことのない通行人が自分を追い越しただけで「殺される」と考えたり、隣の部屋の人が咳払いをしただけで自分を誘拐するための合図だと考えたりしていきます。非常に刺激に過敏となり、一触即発の心理状態になっていきます。
これとは逆に、患者さんによっては、あまりにも自分の周りで整合性のあるハプニングが起こりすぎている(ように本人が感じる)ため、「自分は神なのかも知れない」と万能感として感じ取る方もいます。「自分は周囲の人間や環境を皆つなげて操作しているのだ」という風に考えて行くわけです。この思考の行き着く先には、「神が自分に万能の力を与えた」といった内容になっていきます。最初は受動的な体験には違いないのかもしれませんが、行き着く先は極めて能動的な体験に変わり、「自分は神から力を得た特別で偉大な人間だ」とか、「天皇の血筋を引いている」といった自分主体の誇大的な妄想になっていきます。こうした能動的な妄想は、他者や周囲の環境からの確証を得る必要がなく、疑いの余地がありませんので、念慮の段階を経ることなく妄想として完成するスピードが速いと言えます。また、前述の受動的な妄想より修正がきかない内容ですので、治療に結びついても困難なことが多いです。もちろん、治療に至るためには、例えば「天皇の血筋を引いている」からと何度も皇居に侵入してしまったり、「神から力を得たのでお金は払わなくていい」などという理屈で、万引行為をするような本人の生活や社会性を著しく障害しているようなレベルでなければ成立しません。能動的な妄想は、自分で信じ込んでいるだけで他者には迷惑をかけることが少ないので、治療が困難であるのは、もしかしたら治療の対象になっている時点で、妄想がある程度進行して固定化されてしまっているからなのかもしれません。
これを裏付けるように、世の中には「自分は神から力を得た」という背景で、ある種の宗教やカリスマ性が発揮され、社会的には支障をきたしておらず、むしろ多くの人々を救っているような方もいるはずです。本人自身はともかく、周囲がこうした方によって迷惑を被っているようなことがなければ、治療はおろか診断を下すために妄想という症状としてピックアップする意義には乏しいでしょう。こういった方は、精神医学的な視点では症状や病気とは程遠く、むしろ社会的な成功者であるとまで言えるのかもしれません。
どの社会問題でもそうですが、問題というのは、誰かが「問題だ」と指摘して初めて問題になりうるのです。
精神疾患の難しさやファジーな部分はこの「社会との接点」の具合が文化や風習、社会通念といった、場所や時代で変遷しうるということを考慮しなければいけないところにあります。