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「神経発達症(発達障害)」のおはなし vol.3/5

はじめに

前回までは、神経発達症(発達障害)の人における本人と社会との「外とのギャップ」について説明してきました。今回は本人の特性どうしが生み出す「内なるギャップ」について解説します。これまでもたくさん「特性」という言葉が使われてきましたが、改めて特性とは何でしょうか?また、「性格」とは何が違うのでしょうか?実際に神経発達症(発達障害)を論じる時に「性格」ではなく「特性」が用いられているのは、なぜなのでしょうか?こういったところからスタートしていきます。

「特性」は「性格」とは違う

わかりやすく、まずは「性格」についてご説明しましょう。
性格というのは、「生まれつきの遺伝要因」+「経験や習慣といった環境要因」+「思考や行動様式という表現方法」という3つの要素で成り立っています。最初の2つが性格の「裏方」にまわって、思考や行動様式といった表現方法で表に出るというプロセスになっています。これらのプロセスは、自我障害の記事でもご紹介した、人間の精神活動におけるインプットからアウトプットに至る一連のプロセスそのものであることがわかると思います。これらのプロセスを他覚的に評価して一般化したものが性格です。

例えば、「親切な」性格の人が10人いた場合、10人それぞれに「親切」と評価されたプロセスがあるはずです。ある人は、見知らぬ通行人がハンカチを落とした時、拾って渡してあげたということが「親切」につながっているかもしれませんし、別の人は道案内を一緒にしてくれたことが親切な性格と評価されるのにつながっていたのかもしれません。人の性格というのはこのように、その人が表現した思考や行動が他覚的に観察され、その評価が蓄積されて一般化された結果、定義されています。
一方で、思考や行動の内容は人それぞれであり、親切な10人が「見知らぬ通行人がハンカチを落とした」という状況に対して、同じように振る舞うとは限りません。同じ状況に対する振る舞いの違いは文字通り十人十色のはずです。この振る舞いの違いが本人の特性(となりうる)、ということになります。

「特性」は、オンリーワンであること

特性というのは、その人がもともと持っている特別な性質という意味です。特性は人間以外でも使われます。特別な性質ですので、本人だけの性質であり、他の人にあてはまるわけではありません。ここが性格とは違う部分です。性格は一般化が可能ですが、特性はその人に備わった特別なものであり、他の人と共有することはありません。人はみなそれぞれ固有に特性を持っているオンリーワンの存在なのだ、と考えるとわかりやすいかもしれません。

では、「オンリーワン」であるということをどのようにして推し測るのでしょうか?
これは、逆に一般化されたフィルターを通じて、そこで際立った特徴や傾向を拾い上げることで可能となります。
一般化されたフィルターというのは、心理検査のことを指しています。心理検査は、受けると多くの人が「平均的」と評価される検査となっています。ですから、心理検査を実施する時によく「いいスコアを取れるようにがんばります」とおっしゃる方もいますが、これは高いスコアをとることを目指す学校の試験とは目的が異なっているのがわかるでしょう。
心理検査は、知能検査や発達検査などの心理学的な検査の総称です。知能検査や発達検査のそれぞれに、複数種類の個別の検査が存在しています。実臨床では信頼性や妥当性のあるこれらの個別の検査を組み合わせて実施されています。

数学や論法を勉強している方は、性格は帰納的であり、特性は演繹的であると言えることがわかると思います。性格というのは、本人の特徴を集めて帰納的に定義した「仮説」であり、演繹的に割り出した特性とは、全く異なるということがわかると思います。
また、特性を把握するためには、まずは一般的、普遍的な必要条件が信頼できるものでないといけません。信頼できる必要条件があって初めて本人固有の性質を十分条件として成立させることができ、特性という結論を引き出せるわけです。心理検査が信頼性や妥当性が担保されているものを用いる意義や重要性は、こうした背景があります。

内なるギャップは、高低差に苦労する

心理検査に限らず、全般的に検査というのは、ひとつひとつの項目そのものも評価しなければいけませんが、他の検査項目とのバランスというのも非常に重要になります。例えば、身長と体重の検査において、それぞれ平均的かどうかというのも評価されますが、身長に見合った体重になっているのか、というのは別の話であり、これも検討する必要があります。身長と体重を、例えば語彙の知識と、書字のスピードという2つの項目に置き換えて考えると、例えば語彙の知識が並外れて多くても、字を書くのが平均より遅かった場合は、例えば漢字のテストでは時間に間に合わず、成績が低くなっている可能性があります。これは、「語彙の知識」という項目と、「書字のスピード」という項目にギャップが大きければ大きいほど弊害になりやすいことがわかると思います。このギャップを「内なるギャップ」と呼んでいます。

今挙げたのはシンプルな例ですが、心理検査ではもっと複雑な能力について項目ごとに評価することができる検査もあります。例えば「周囲の状況を理解する力」とか「記憶や集中を保てる力」などです。いずれも、上記のようにインプットとアウトプットに大きなギャップがある人もいれば、例えばインプットだけに絞っても、五感のうち、視覚による理解と聴覚による理解とでギャップがある、といった人もいます。様々な「内なるギャップ」が存在し、それぞれに特徴的な苦労を個々で経験されているわけです。

例えば、小学校3年生のA君は、漢字が得意で、小学校3年生の時点で中学校卒業相当の語彙の知識があったとしましょう。一方で、人の話を聞いて耳で理解することがとても苦手であるとします。A君は、自分で読んだり書いたりして覚える特性は際立っており、漢字のテストはいつも満点です。一方、ディスカッションの場面で、人が話したことを踏まえて自分の意見を言うことが必要となった場合、その語彙力の高さを発揮することができません。

一番もどかしさを感じるのは、この場合本人です。なぜなら、本人自身はこの「内なるギャップ」に気づきようがないからです。もどかしい思いや苦しい思いを誰よりも経験しているにも関わらず、努力ではカバーできず、一方で「外とのギャップ」とも相まって、どんどんと困難エピソードが蓄積されて困り感が増えていきます。
これが続くと、「空気が読めない」とか「話を聞いていない」などと解釈され、本人の自己評価もそれにつられてどんどん低下していく、ということが往々にして生じやすくなります。

内なるギャップは人によって内容は異なりますし、平均化や一般化というのもできません。共通しているのは、上記のA君のような本人にとって、内なるギャップが大きく存在していることです。これもある意味、キーワードとして前回挙げた「相対性」につながっています。仮にある部分が天才的に秀でていても、ある部分が極端にできない、というでこぼこの特性がその人に存在する場合は、まんべんなくやりこなすことを求められる社会生活下においては、とても苦しいですし、困難を感じるようになります。
特に学校教育は、まんべんなくやりこなすということを価値観においていることが多く、またこれを目標としたシステムが教育の中に組み込まれていることが多いため、「外とのギャップ」のところで説明したように小学校入学が最初のクライシスになることが多い理由でもあります。

自分の時計と社会の時計

以上、外と内の2種類のギャップについて説明してきました。これらをまとめると、あなた自身が持っている生物学的な「自分の時計」と、社会が持っている時間という名の「社会の時計」の2種類の時計があり、この2つは必ずしも一致しないということです。しかし、小学校入学の時点ではこの2つを一緒に合わせなくてはいけませんし、現代社会はあまりにも社会の時計が優先されすぎているのかもしれません。たとえ自分の時計が遅れていたとしても、止まっているわけではありませんので、本人のペースで自分の時計を刻めるような理想の環境があれば、本人の困難感や苦しさは減るのかもしれません。一方で、人間は社会生活を営まなくてはなりませんので、やはり社会の時計に合わせなくてはいけない場面も避けられません。この辺のバランスはとても難しいところです。

>大人の神経発達症(発達障害)は「内なるギャップ」から二次症状に:次へ続く

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