「こころの問題」の幅広さの2つの記事については、医療従事者の方々から多くのフィードバックをいただきました。
特に予防医学についての興味関心が大きい方が多いようで、メンタルヘルス予防のことについて詳しく知りたいというリクエストが多かったです。
このコラムでは予防医学的な観点に特化して、未だ確立の難しい精神疾患の二次予防について解説していきたいと思います。
予防医学の三次構造
こころの問題の幅広さのコラムにて、サルトジェネシスsalutogenesisは予防的、パソジェネシスpathogenesisは治療的観点であることを、コップ半分の水の比喩を挙げて解説しました。
このsalutogenesisについて、ノルウェーの小児科医でもありsalutogenesis研究の第一人者でもあるBengt Lindström先生が書いた図が大変わかりやすいので、引用いたします[1]。(一部追加・改変しています。)
図Aの右側が川の上流で、左に行けば行くほど急流となり、最後は滝に落ちるという流れになっています。
図Aのちょうど真ん中にある仕切り板が、いわゆる健康と病気の境目で仕切りをまたぐ前のPROMOTE(健康増進)、EDUCATE(健康教育)、PREVENT(疾病予防)がいわゆる健康の間に行われるステップとなっています。また、この順番でよりパワーが必要となってくるので、PROMOTEが最も手軽に今すぐにでも始められるものであると言えるでしょう。こうした健康な方が疾病にかかることを予防する取り組みを「一次予防」と呼んでおり、図中のPREVENTがまさにこの一次予防を指しています。
さて、仕切り板を越えてしまった場合は、滝に落ちないような取り組みがなされます。特に仕切り版を越えて間もないタイミングでは、浮き輪をつけているPREVENTがまだ有効な場合もあり、PROTECT(症状の悪化防止)と同時にPREVENTもなされると良いでしょう。このエリアの予防対策が二次予防です。
三次予防は滝に落ちてしまった後の「再発防止」です。ここには図中のCURE(治療による症状軽減強化)も含まれます。
図Bは医療従事者側の取り組みについて、独自にイラストを挿入したものです。
病院やクリニックでは、図B右下の奔走するお医者さんのように、滝に落ちそうになっている人や実際に落ちた人の治療に明け暮れています。
一方、今後は左上のライフガードさんのように、仕切り版を越えそうになっている人に浮き輪を提供したり、仕切り版を強固にしたりと発症前後の防止策を練ることができれば、より少ない医療資源とマンパワーで健康側にシフトしていくことが理論上は可能になります。
精神疾患は三次予防が現在の主流
先程、滝に落ちて「しまう」と書きましたが、精神疾患の場合、滝に落ちてしまうことそのものが「終焉」を意味するわけではありません。滝に落ちてからの対策が実はとても大事になります。なぜかというと、発症そのものが直接すぐに命の危険につながるわけではないからです。
つまり、精神疾患は「慢性経過」のものが多く、現段階では滝の下にある「滝つぼ」からこれ以上下流に流されないようにする取り組みが主となっているわけです。そういうわけで、精神疾患は、図Cのように滝が階段状になっているものと例えることができるでしょう。
滝に落ちることが繰り返される(=再発が繰り返される)と、より上流にいくことは困難となり、また三次予防そのものも効果が薄れていくため、入退院を繰り返したり、症状の悪化や固定化が目立ってくるようになるわけです。
一次予防は事実上困難
身体疾患の予防医学と異なり、精神疾患の予防で最も特徴的な内容をお話いたします。
こころの問題の難しさは一次予防が事実上困難なことにあります。
皆さんが毎年受けている「健診」は身体疾患の健康診断です。視力検査や身長体重計測、採血等を経て医師による聴診等がありますね。
仮に精神疾患にもこのような健診が行えたとして、皆さんは「こころの健診」を受診されるでしょうか?おそらく「何か見つかったらどうしよう」となるのではないでしょうか?
こころの問題のスクリーニングにおけるボトルネックは、何かこころの異常が健診で見つかった場合、それを指摘される自体がメンタルヘルスを損ねたり、烙印を押されたように感じるために、実施そのものの悪影響が懸念されていることです。これらは心理学的には負のラベリング効果とも言われます。
現在は身体疾患の健康診断と同様にこころの健診ができる方法が確立されていないのでこの辺の議論が盛んに行われていませんが、仮に近い将来何らかの精神疾患診断指標が採血や簡易検査でわかるようになっても、最後までこの問題は残ることでしょう。
ストレスチェックの限界
もっとも、職場で実際されている皆さんもご存知の「ストレスチェック」については、すでに2015年12月より実施されています。これは、「『うつ』などのメンタルヘルス不調を未然に防止するための仕組みです」[2]と厚生労働省のホームページに記載があり、労働者全員に実施しますので、一次予防を目指しています。実際に、厚生労働省が2022年3月に公開している『ストレスチェック制度の効果的な実施と活用に向けて』という資料を参照すると、『事業者が労働者の意図しない形で職業性のストレス状況に関する情報を収集するためのものではなく、労働者が自身の職業性のストレス状況を把握することを目的として開発されました』とあります。
しかし、このストレスチェックで「メンタルヘルス不調」が未然に防止できているかどうか、については今のところ有効な報告は出てきていません。事実、ストレスチェックを受けた人のうち、医師面接につながった割合は0.6%であったとの報告が厚生労働省より2017年7月に公表されており、大きな会社も小さな会社も規模によらず1%未満となっています[3]。もっと新しい上記厚労省の公開資料でも、77%の事業所が5%未満と回答しています。
加えて、「事後フォローの乏しさや困難さ」というのもここに加担しています。仮に不調者を拾えてもその後のバックアップ体制が整っている環境を整備できていなければ、仮に上記の0.6%が30%ぐらいに上がっても医師と面接しておしまい、ということになった場合、五十歩百歩となってしまうわけです。これは、上に述べたような精神疾患の特有性が大いに関係しているとともに、まだ精神疾患の原因が特定できておらず、有効に検出する方法が確立されていないからというのも大きそうです。
メンタルヘルス予防は三次→二次→一次の順番
では、どのようにしたらいいか、最後に述べたいと思います。
身体疾患は一次予防から疾病予防を図り、二次予防で早期治療を行って重症化を防ぎ、三次予防で再発防止に努めるという本来の予防医学的順番に則る「順行性」の予防形式が可能ですが、精神疾患においては、現在主流の三次予防からまずは早期発見早期介入の二次予防の確立を目指すのが自然な流れでしょう。そういう意味では、「逆行性」の予防形式であるとも言えます。
この二次予防の確立がなされて初めて(発症の因子が少しずつ明らかになることが予想され)一次予防が実現に近づきます。
上に述べたようにメンタルヘルス領域では一次予防が様々な理由で事実上現段階で困難ですから、今のところは「発症の直後」のエリアに重点を置くことが先決と言えます。
これを裏付けるように、精神科受診の課題でも述べましたが、精神症状が生活に支障をきたすほどまでに至っている人のうち50%強ほどの方が受診の意向はあるのに受診できていない現実を鑑みると、この「発症の直後」の方に対する二次予防の確立が、社会的課題を解決するのにも役立ちそうです。
[1] Monica ERiksson, et al. A salutogenic interpretation of the Ottawa Charter. Health Promot Int, 23(2):190-199
[2] 厚生労働省『ストレスチェック制度導入マニュアル』
[3] 厚生労働省『ストレスチェック制度の実施状況』
[4] 堤明純 ストレスチェックのエビデンス 予防精神医学 vol.3(1)2018